歴 史


「青い目の人形エレン・Cと答礼人形長崎瓊子(たまこ)の背景」

出島・ロータリー・クラブ卓話   長崎瓊子里帰り実行委員会  遠山 博文
2002年11月8日(金) 
ニュー・ナガサキ・ホテル

●時代背景(1920年代の日米関係)

明治から大正にかけアメリカへ移民する日本人の数は著しく増加した。

1890 (明治23) 2,038
1900 (明治33) 24,326
1910 (明治43) 72,157
1920 (大正9) 111,010

特に、カリフォルニア州に日本人移民は集中し、同州の農業生産の10%は日本人の手によるものだった。低賃金の働き蜂、自分たちばかりで集まりアメリカ社会に溶け込もうとしない日本人の習性やアメリカ社会の東洋民族蔑視の傾向などのため、アメリカの排日気分は最高潮に達していた。
 1913(大正2)年、加州議会は『外国人土地所有禁止法』、1924(大正13)年には米議会が『新移民法』を可決して、事実上日本からの移民を締め出してしまった。それゆえ、日米間は最悪の関係となった。

シドニー・ルイス・ギューリック(Sidney Lewis Gulick 1860-1945)

シドニーの父は宣教師であった。父に伴われシドニーもハワイ、日本、中国にも滞在し、長じて、ダマースと大学に学び、ユニオン神学校で神学を専攻。その後、日本で熊本、松山など歴任し普及活動を行った。京都・同志社大学神学部教授として宗教を講じた(1906−13)。滞日25年の知日家・親日家。健康を害し、1913年帰米。加州で排日の嵐を目の当たりにする。在米日本人移民の実情を調査し、『米国の日本批判は的外れ』と議会や政府に働きかけるが、結局は『新移民法』(1924)の成立で失敗する。『政治よりも教育で』、『政府よりも一般大衆から』という考えに至り、民衆レベルの日米友好のために、12,000体のアメリカ人形の贈呈による日米交流を立案、遂行する。
 日本軍の真珠湾攻撃の際『軍によるデマだ』と思ったという。1945年12月21日他界。享年85歳。

12,000体の『青い目の人形』、日本に送られる

『日本には雛祭りという素晴らしい風習がある。その雛壇にアメリカ人形を参加させては』という、ギューリック博士の呼びかけに全米各地の民間組織・団体は呼応する。人形会社3社特注特製の1体3ドルの裸人形を買い求め、それに自分たちの思い思いの衣装を作り手紙や付属品をつけ、送別会をした後、中央本部へ送り出した。看護婦さん、アメリカ原住民、消防夫、花嫁、水兵、赤ちゃんなど様様な姿の『手作り』人形だった。いずれも『ママ−』と泣き、目が開閉した。*12,739体が寄せられたという。
それぞれの人形はパスポートと片道切符を持ち、1926年(大正15年)数隻の舟がこの大勢の人形を運んだ。最終便は12月20日という。(12月25日大正帝他界。翌日、『昭和』と改元)
 日本では1927年(昭和2年)2月27日横浜に第1船が到着、その後続々とアメリカ人形が届いた。不況で、暗い世相の中、この大量のアメリカ人形は虹のように、人の心を明るくするニュースだった。中央の東京での大々的な歓迎会は言うに及ばず各道府県に配布後は、各地で大小様々の歓迎会があった。
  *全国各地からのこの数の人形に加え、個人篤志家から157体、各州代表48体、ミス・アメリカ1体(天皇家に寄贈)、
    計12,945体送られたことになる。なお、渋沢資料館資料では、日本到来の人形数は11,973体とある。
    その作54体について不明。基準外で米側が送らなかったのかもしれない。輸送途中破損したのかもしれない。

長崎の青い目の人形

長崎県にはこの友情の人形(青い目の人形)は*214体贈呈されたという。4月3日が旧暦でひな祭だったが日曜日だったので、4月4日に長崎女子師範学校で500人の女子生徒と県知事、米領事など200人の来賓などが集まり、大きな歓迎会があった。その後各市、各郡に配布され、各学校に渡された。当時、県内の小学校数は366校(昭和3年調べ)だったので、当然選に外れた学校もあった。
 長崎市、佐世保市両氏の小学校(それぞれ22校と10校)全部に送られたという。

師範 長崎 佐世保 西彼 東彼 南高 北高 北松 南松 壱岐 対馬
小学校 3 22 10 17 15 17 16 17 15 10 13
幼稚園 1 7 3 0 1 1 0 1 0 1 1
4 29 13 17 16 18 16 18 15 11 14

(長崎日日新聞 1927=昭和2年3月9日)
 谷トキヨさんは宇久村立神浦尋常高等小学校5年生の時の事を覚えている。『校長先生とお供の先生が青い目の人形を連れて神浦港に着きました。たくさんの学校のうちからくじであたった、といわれました。歓迎のために作文、習字、図画、工作の展示がりました。歓迎会には村長、議員、神主、坊さん、警察、父母も来席。祝辞が長々と続きました。みんながコンニチワと言うと、人形がお辞儀してママ−と泣きました。目が開閉するので驚きました。』
    *渋沢資料室資料では217体とあるが、1927年3月7日の『長崎新聞』では173体、3月9日の『長崎日日新聞』では171体である。両            新聞の数字は配布以前の計画であり、実際の配布字は214体ともそれ以上とも言う。しかし、当時の日本の小学校数25,490と幼            稚園数1,066計26,556を考えると2.4校に1体となるという(是枝博昭)。これを係数にすると長崎県配布分は160〜170体くらいか?

58体の答礼人形 長崎瓊子は長崎県代表

 アメリカの民間団体世界児童親善協会(The Committee on World Friendship Among Children)が送った12,000もの友情の人形の受け入れ先は事実上政府機関の文部省だった。『お礼は無用』との贈呈であったのに文部省は答礼として日本人形を贈る計画を立てた。友情人形をうけた学校の女子生徒から1銭ずつ拠出してもらい、一流の人形師にそれぞれの道府県を代表する最高級の市松人形を作らせるというもの。人形本体150円、衣装150円、付属品50円と言う豪華美術工芸品だった。当時の小学校教員の月給は40〜50円程度だった。47道府県代表に加え、6大都市、4植民地(朝鮮、樺太、台湾、関東州)、日本代表倭日出子=ミス・ジャパンの58体が送られた。答礼人形は、完成後それぞれの道府県などにお別れの挨拶のために帰省している。
 ミス長崎=長崎瓊子も9月27日から10月24日まで県内7箇所をお別れの巡回旅行をしている。
答礼人形たちは11月10日横浜を出発、一陣は12月28日ニューヨーク着。半年に全米479都市を訪問。1,000回以上のパーティーが催されたと言う。その優雅さにアメリカ人はみな目を見張った。

太平洋戦争と人形処分

 『友情の人形』として親しまれてきた『青い目の人形』は1941(昭和16)年、日米両国が太平洋戦争に突入すると一転、敵国の人形となり『仮面の親善師』『スパイ人形』と疎まれるようになった。踏み潰したり、焼いたり、竹槍で突き刺したりして処分した。
 茂木国民学校(現長崎市立茂木小学校)に勤務していた長岡卯太郎先生(現在85才)は次のような証言をしている。『私が山里尋常小学校5年の時、青い目の人形がやってきた。軍人になるのが嫌で教師になって茂木に赴任したら、そこにも青い目の人形があった。職員会議で敵愾心を煽るため校門のところにおいて生徒に踏ませようという達しがあった。当時、星条旗を踏みつけさせる事などどこでもあたりまえの事だった。アメリカから親善のためにやってきたのだから、戦争とは無関係と反対意見を述べた。このままでは踏まれてしまうと心配になり、家庭科室か理科室にあったのをこっそり二階の天井裏に隠した』
 茂木小には青い目の人形はない。長岡先生は25年前緑ケ丘中学校の校長で教職を終えられた。

戦争を生きのびた人形たち

 12,000体もの青い目の人形のうち、いま『生存』確認が出来ているのは300体ほどしかない。そこには時代の狂気を生き抜いた人形の幸運と人形を守った『小さな反戦』秘話が隠されている。
 長崎では平戸のエレン・Cと島原のリトル・メリーの2体である。この2体の人形は長崎県民の『良識』を示すものであり、県民の『誇り』でもある。

アメリカに残る答礼人形

58体の答礼人形は『美術工芸品』であり、多くが美術館や博物館に収蔵されていたため、現在44体が『生存』している。75年の年月の経過の中で傷みの激しいものもあり、衣装は多くが色あせている。その修復もかね、日本に里帰りする人形もある。ミス長崎=長崎瓊子は75年前アメリカを巡回旅行している間、ミス青森=青森睦子と取り違えられて、長い事ニューヨーク州ロチェスター科学博物館に収蔵されていた。1988(昭和63)年に『ミス青森』として他の18体と一緒に里帰りし、日本人形店『吉徳』で一応の修復を受けている。

長崎瓊(たま)

 1927年アメリカから送られてきた青い目の友情人形のお礼として海をわたった58体の市松人形の一つ。長らくどの州に送られたのかさえわからず行方不明だった。当時の『長崎日日新聞』(1927年9月24日)に『空色に裾を白く染め抜き、いろいろな草花を散らした縮緬を重ね、下は燃えるような緋の長襦袢、足袋は羽二重の白足袋をはいている』とある記述などからニューヨーク州ロチェスター科学博物館所蔵の『ミス青森』が実は『ミス長崎=長崎瓊子』と判明(2000年8月)

●エレン・C(平戸市立平戸幼稚園)とリトル・メリー(島原第一小学校)

 長崎県に送られてきた214体の友情人形のうち現在2体のみ『生存』が確認されている。
 エレン・Cは日本でもっとも完全な形で保存されている『青い目の人形』の一つ。"FREIENDSHIP DOLL"の商標のタッグまでつけている。また『"ELLEN C."米国オハイオ州ウィルミントンのクウェーカー教聖書学校の初等科生徒より』の送り主の札もついている。さらに、1949年発行のアメリカ側の記録文献"DOLLS OF FRIENDSHIP"に*明確な記述があるまれな人形。『(太平洋戦争の)当時、ともかく捨てたり燃やしたりしなければならないような雰囲気があった。しかし、そうするに忍び難く、園長と相談して内密に物置に隠した』(故高田セイさん=1989年93歳で永眠)とある。

   *『オハイオ州からは、他の州地区と比べて、非常に多い人形たち約2,500体が日本に送られた。・・・また同州のクリントン郡から送られた人形の    一体は昔のクエーカー(Quaker)教徒の着物を着、エレン・シー・ライト嬢(Miss Ellen C. Wright)に敬意を表して、ウィルミントン市のフレンズ日曜学    校の児童たちによって、エレン・シーと名前がつけられた。この人形は同学校のステージ中央に置かれ、生徒たちがこのまわりを取り巻いて、記念写    真がとられた』(邦訳『青い目の小さな大使』ジャパン・タイムズ社)

リトル・メリーについてはその背景についてほとんど知られていない。この名前も1984(昭和59)年『生存』が確認された後に生徒たちが名づけたもの。長らく、『昭和10−12年卒業生』寄贈の雛人形収納箱にひっそりと保管されていた。同校沿革史に『昭和2年5月18日アメリカ人形歓迎式(第一、第二、第三小学校、幼稚園連合)島原中学校講堂において挙行につき女児童全部参列』とある。

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